朝ドラ『風、薫る』から考える「医師の品格」 No52
- harmonia77
- 15 時間前
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――白い巨塔の時代、左遷、そして「手の温もり」が教えてくれたこと――
前回は、朝ドラのワンシーンをきっかけに「観察」と「細胞の声」について触れました。 今回は、劇中に描かれた医師との関わりやタッチングのシーンを手がかりに、私が看護師として歩み始めた1970年代後半の医療現場を振り返りながら、 “医師の品格とは何か” を改めて考えてみたいと思います。
「白い巨塔」が現実だった大学病院時代
年代が古くなるので、若い世代の方には想像しにくいかもしれませんが、当時の医療現場は今とは全く違う価値観で動いていました。
当時の看護師の社会的地位は、今よりもずっと低いものでした。医師との関係も対等とは全く言い難く、情報共有というよりは、医師の指示を忠実に実行する役割が主でした。
特に大学病院では、ドラマ『白い巨塔』の「財前教授の総回診」が、決して誇張ではない時代がありました。教授を先頭に医局員たちがゾロゾロと病室を回ります。6人部屋の狭い空間で、カーテン越しに羞恥心や恐怖心に耐えている患者さんを前にしても、当時の私たち看護師にはサポートする術がありませんでした。
教授の権力は絶対でした。私がある時、スタッフを守るために「それは看護師がすべき行為ではありません」と教授に正論を申し入れた際には、返ってきたのは静かな、しかし確実な「左遷」という結果でした。それでも、私は自分の信念を曲げなかったことに後悔はありません。
医師の品格①:忘れられない「手の温もり」
大学病院時代、私はある外科医が苦手でした。しかし、その先生の「ある行動」が、私の偏見を打ち砕きました。
私が病気で救急救命センターに処置を受けていた時でした。あの時の救急救命センターは、機械音だけが響く冷たい空間でした不安で押しつぶされそうになっていた時のことです。その先生は、何も言わずにそっと私の手を握ってくれました。その手の温かさは、どんな言葉よりも深く私を勇気づけてくれました。

看護技術に「タッチング」がありますが、実はこれは非常に繊細で難しい技術です。特に日本人の場合、パーソナルスペースを重んじるため、触れ方一つで相手の反応が大きく変わります。
指先でちょんと触れるのではなく、「手のひら全体(手の甲の重みを感じるほど)」で、そっと包み込むように触れること。 そして触れる場所は、心理的負担の少ない「前腕(肘から下)」や、座っている時の「肩」。相手の呼吸に合わせるように置くその手は、専門知識を超えた「人間としての品格」を伝えてくれます。
医師の品格②:黄疸の兆候と「知識」の壁
一方で、こんなこともありました。訪問看護の現場で、重症患者さんのわずかな変化――皮膚の黄染(黄疸)――に気づき、訪問担当医に報告した時のことです。
この病態は、結石が詰まっては外れる(嵌頓と開通)を繰り返すため、症状が上がったり下がったりします。医師の1回目の訪問診療時には黄疸がみられなかったため、2回目の訪問時に私が「黄疸の症状があります。エコーなどの詳しい検査をしていただけないでしょうか」とお願いしたところ、その医師は私の報告を鼻で笑ったのです。
「君、黄疸はどんな状況で発生するか知っているかね。やたら滅多に(その言葉を)使うべきではない。」
知識を試し、看護師の意見をマウンティングするかのような口調で言い放ちました。確かに、診断権のない看護師が安易に病名を口にすべきではないのかもしれません。しかし、医師が見ていない時間の、目の前の「細胞が発しているサイン」を五感で察知しようとする看護師の観察を、頭ごなしに一蹴して切り捨てる姿勢。私が憤りを感じたのは、知識の差ではなく、 “対話を拒否する姿勢” でした。
その後、3回目の訪問時に医師の目の前で激しい症状が発生し、医師は慌てて「非常に重篤で生命も危うい」とご家族に告げられました。後日の検査で、私の見立て通り「総胆管結石嵌頓(そうたんかんけっせきかんとん)」であると分かり、私の観察が正しかったことが証明されましたが、そこに至るまで、そこに「対等な対話」はありませんでした。
結び:医療リテラシーと「harmonia planet」の願い
医療は、知識や技術だけでは完結しません。 そこに必要なのは、観察し、触れ、対話し、相手を理解しようとする“人間力”です。
私は現在、harmonia planet を通じて、患者さんと医療者が対等に対話できる環境づくり(接遇・教育支援)に取り組んでいます。 あの時、救ってくれた「手の温もり」が教えてくれた品格を、これからの医療現場に静かに広げていきたいと思っています。
この当たり前でいて難しい「人間力」を、これからも大切に伝えていきたいと思っています。





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