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外部からの災害時支援は3日〜1週間は来ない──行政も医療者も被災者になる現実から考える自助・共助  No55

先日、「市民と医療者のための公開講座2026 『災害における対話〜次の”もしも”に医療者・行政・市民の立場で備えるために〜』」というテーマの公開講座に参加してきました。主催は、私も所属していますJAHM(日本医療メディエーター協会)です。昨年度は「心に届く!安心感を与える聴き方・伝え方〜患者・家族に寄り添い、信頼関係を築く対話とは〜」のテーマで実施されたとのことですが、残念ながら昨年度は参加できませんでした。今回のテーマは、私自身「浜松市災害支援ナース」として登録もしていますので、大変興味深く参加させていただきました。


この講座は、東日本大震災から15年が経過した今なお、まだまだ心の内を語ることが難しい状況の中、当協会の趣旨にご賛同いただいた先生方が登壇してくださったという経緯があるようです。その大切な想いに配慮し、講座の具体的な詳細は控えさせていただきます。


ご講演の中で、私が特に考えさせられたのは、①災害時には行政職員もまた被災者であるという視点、②被災から長い年月が経過した後の自立支援の課題、③災害医療の現場で求められる厳しい判断、という三つのテーマでした。

今回は、それらのテーマから私自身が学んだことや感じたことを交えながらお伝えしたいと思います。


人口76万人に救急車30台の現実

私は日頃から「浜松市災害支援ナース(ボランティア)」の登録をしており、災害対策には常にアンテナを高く張っています。


実は先週も、地域で開催された「防災座談会」に参加し、災害支援ナースの存在をPRさせていただいたばかりです。

その座談会の中で、市の危機管理課の方から、非常にハッとさせられるお話がありました。

現在、我が浜松市の人口は76万人以上です。これに対し、市内の救急車はわずか「30台」なのだそうです。

つまり、約2万5000人に1台の割合です。大規模災害が起きたとき、道路は各所で寸断されます。過去の大震災では、救急車自体が破損して動けなくなった事例もありました。

「公的機関が何とかしてくれる」という前提は、災害時には通用しません。行政もまた、等しく被災しているからです。


だからこそ、まずは「自分で自分の命に責任を持って行動する(自助)」。そして少しでも余力があるときには「他者を助ける(共助)」。これが、災害時に命を繋ぐための絶対の鉄則となります。

座談会でも、「行政に救護を求めるだけでなく、住民同士の共助が不可欠である」というメッセージを強くお伝えしてきました。


命が助かったその後に潜む「二次被害」

しかし、災害時の本当の難しさは、「命が助かったその後」にも続きます。


過去の大規模災害の教訓を紐解くと、避難生活や支援が長期化する中で、ある深刻な問題が浮かび上がってきます。それは、支援を受ける中で「やってもらうことが当たり前」になり、徐々に住民の自立心が失われていってしまうという問題も一つです。


生活環境の変化に伴い、若い世代が転居していく一方で、高齢の方々は住み慣れた地域に留まることを希望されるケースが多く見られます。その結果、地域を支える支援者が不足し、高齢者の行動範囲が狭まって「生活不活発病」が拡大し、要介護者が急増していく……という二次的な被害が大きな課題となるのです。


命の選択「トリアージ」が秘める葛藤

私は日頃、コンフリクト(対立や葛藤)に向き合い、対話を促進する「メディエーション」を学んでいます。

そして、この災害の課題に対しても、まさにメディエーション的思考が必要であると感じます。一律の集団対応ではなく、個々の課題を丁寧に分析し、相手の主体性と「自立」を能動的に促していく関わり。これこそが、将来の不満や衝突を防ぐ「予防的メディエーション」の考え方そのものだからです。


そして、災害現場において、最も過酷で、最もコンフリクト(葛藤や衝突)が生まれやすいのが、命の選択を迫られる「トリアージ」の瞬間です。

そのトリアージを巡っては、東日本大震災の後に起きた「石巻赤十字病院のトリアージ訴訟」など、今も私たちの心に重い問いを投げかける歴史的事実があります。


そもそも災害現場では、限られた医療資源(スタッフや医薬品)の中に、多数の患者さんが一時に押し寄せます。その際、一人でも多くの命を救うために行われるのが、治療の優先度を決める「トリアージ」です。

  • 【赤】 最優先治療群(命を救うため、直ちに処置が必要な状態)

  • 【黄】 待機治療群(多少の遅れがあっても、直ちに生命の危険はない状態)

  • 【緑】 軽症群(自力で歩くことができ、応急処置で対応可能な状態)

  • 【黒】 死亡、または現在の医療資源では救命不能な状態


ここで、最も大きな苦悩やトラブルが生まれやすいのが、救命不可能と判断された「黒タグ」のケースです。愛する家族が目の前でその判断をされたとき、ご家族がすぐに納得できないのは、あまりにも当然のことです。

災害現場の救急外来で、負傷した避難者に寄り添い処置を行う看護師のイラスト。災害医療におけるトリアージや医療従事者の葛藤と寄り添いを象徴するイメージ。
災害現場の救急外来で、避難者の声に耳を傾けながら優しく処置を行う看護師のイラスト。極限状態における医療従事者の葛藤と寄り添いを象徴しています。

医療従事者もまた、一人の被災者である

しかし一方で、災害現場の医療職もまた、極限の闘いを強いられています。

被災者のそれまでの既往歴や被災状況はおろか、お名前や年齢さえ分からないまま治療に入らざるを得ないこともあります。平常時のような詳細なカルテの「実施記録」を残す余裕などなく、通常の半分以下、あるいはそれ以下の記録しか残せないのが災害時のリアルな実態だと思います。


先述の裁判の際にも、原告側の求めに応じて記録開示が行われましたが、混乱を極める現場での当時の公的記録は本当にわずかなものでした。そのため、対応した医療スタッフが、当時の記憶を一人ひとり手繰り寄せながら状況を振り返るしかなかったそうです。

ですが、ここで忘れてはならないのは、「そこにいる医療従事者たちも全員、一人の被災者である」ということです。

自身も傷つき、疲弊している中で、過去のあの過酷な極限状態の記憶を遡る作業が、どれほど苦しく、凄惨なものであるか。時としてPTSD(心的外傷後ストレス障害)によるフラッシュバックの恐怖に曝されながらの作業であったことは、容易に想像がつきます。


人の命を預かる医療現場である以上、ミスがあってはならないのは大前提です。しかし、人間の極限状態で行われる、あの命との壮絶なやり取り。

私たち社会の側も、ただ結果を責めるのではなく、災害医療が置かれる「過酷な現状」に対して、深い想像力と理解を持つことが今こそ必要なのではないでしょうか。


行政や医療に「完璧」を求めるのではなく、一人ひとりが当事者として「自助・共助」を本気で考えていくこと。それこそが、災害という不条理に立ち向かうための、私たちの最初の、そして最大の第一歩なのだと強く感じています。 【お知らせ】

来週から不定期で、私が海外で実際に経験した少々ユニークなアクシデントのお話を4編ほどお届けする予定です。

「えっ、そんなことが本当にあるの?」「まさか、そんなことになるなんて!」

と思われるような出来事ばかりで、私自身も原稿を書きながら思わず笑ってしまったり、当時の自分に驚いたりしています。

通常の記事も挟みながら掲載してまいりますので、どうぞお楽しみに。


 
 
 

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